「一を聞いて10を知る」ではなくて「1を聞いて10の理由を考える。」

「一を聞いて10を知る」ではなくて「1を聞いて10の理由を考える。」(正垣泰彦 最ゼリア社長)

 本書では、正垣社長のこの言葉について、3つの要点が挙げられている。

 □売れているものを見つけたら、その理由たら徹底的に考え抜く。

 □自分の好み(主観)を排除し、顧客の好み(客観)だけを考える。

 □「良いものを作れば売れる」というのは思考の手抜きである。

 このことについて、具体的に考えていく。

 

 この間、近所の不良?が白塗りの外国車?ぽい車を止めていた。しかも、住宅路のど真ん中に止めていた。近くの住人(うちの母など)は、渋々迂回して、住宅路を出なければならなかった。彼らはなぜ、住宅路のど真ん中に置いたのだろうか。

 もしも、彼らの車がまあるいフォルムのファミリーカーだとしたら、道路のど真ん中に置くような行為をしただろうか?いや、していない。その違いから考えると、彼らは、外国車?っぽい車のかっこよさや、威圧感を周辺住民に見せつけたかったのではないかと考えられる。

 道路の端に止めることと、道路の真ん中に止めることの違いは何だろうか?それは、ずばり、周辺住民に迷惑がかかるかかからないかの違いだろう。道路の真ん中に威圧的な外国車っぽい車を止めることで、彼らは、周辺住民に憤りと、威圧にひるんでその怒りを押さえつけるという、惨めな体験をさせることができる。

 実は、それが目的なのではないかと私は考えている。周辺住民に、怒りなどの感情を生じさせるようなことをし、さらに威圧的なパフォーマンスでその身体感覚を抑え込ませる。そのことは彼らに強い全能感をもたらすのだろう。彼らは、優越感に浸りたいのだ。

 しかし、なぜ彼らはそうまでして、優越感に浸りたいのだろう。優越感を願望するとき人は、どこかで劣等感(コンプレックス)を感じた経験があるはずだ。おそらくだが、彼らも、恐怖や威圧的なイメージやそのパフォーマンスにひるんで、自分の素直な感情を飲み込んだという経験があるはずだ。例えば、不良仲間の先輩に、暴力を振るわれて、理不尽に泣く泣く誤ったとか、使い走りにされたとか、不条理にお金をとられたとか。その、不良仲間の先輩もどこかで、同じような経験をしてたりして。。。

 このように、劣等感とその揺り戻しで起こる優越感への願望は、連鎖しているのかもしれない。

 とにかく、彼らの行動原理は、人に理不尽な思いをさせて、さらに威圧的パフォーマンス(殴る、蹴る、脅す、大股で歩く、大声を上げるなどなど)でその感情を抑え込ませる。そうすることで、優越感に浸りたい。ということだろう。