空気は一つではない 茂木健一郎氏のツイートから

 

ところで、「空気を読む」と言っても、その「空気」なる文脈は、どのようなコミュニティに身を置くかで異なる。「空気」からの同化圧力も、変化する。

たとえば、周囲と合わせるのがよしとされるコミュニティもあるだろうし、逆に他の人と違ってこそ価値がある、というコミュニティもある。その二つで、「空気」は違う。

コミュニティを移動すると、「空気」も変わる。この世に、「空気」は一つしかないのだという思い込みから解放される。だからこそ、旅することや、社会的移動を続けることは、大切なのである。

一般の人が興味を持たないようなことに関心がある人は、常に「普通になれ」という同化圧力にさらされる。しかし、同好の士の間に入ると、逆に「もっとやれ」「そんなものか」という疾走圧力にさらされる。空気が一変する。

世の中で新しい動きが起こる時に、しばしば集団現象なのはそのためで、世間の「空気」とは異なるローカルな「空気」が生まれることで、特別な進化が始まるのである。そのコミュニティに身を置くことが肝心になる。

逆に言えば、世間の「空気」とは異なる「空気」をいかに製造するか、「空気製造機」のし掛けが、集団的現象としての創造性、イノベーションを引き起こす上で重要なポイントだと言えるのである。

 

 

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 集団を移動するのが大切なことの理由について考える。

 

 私は、あるサークルに所属している。そのサークルの言動の在り方は、「相手からを待つ。」というものだ。これは、私もそうなのだが、相手がどう出るかで、自分の行動を決定するのだ。たとえば、企画でも、自分から、状況や目的に応じて、行動するのではなく、誰かが何かを始めるまで、ケータイをいじっている。そして、誰かが業を煮やして、何かを始めるとそれに群がって、やっと活動を始める。僕も含めて全員がこういう態度だから、何もせずにぼんやりしている無駄な時間は自然と多くなる。彼らに言わせればそれはわいわいする時間で必要なものらしい。しかし、ぼくはそんなことをするぐらいなら、さっさとやってさっさと終わらせようよと思う。活動生産性が低いんだ。

 

 こういうことになる原因は「相手からを待つ」という行動様式にある。僕は、そうではなく、状況や、文脈、目的などに応じて、ふるまうと、少なくとも、活動生産性は上がると思う。それに、僕のサークルが厄介なのは、今の、集団の状態つまり、だれも目的や、状況や文脈に基づいて動かない状態と異なる在り方を積極的にけん制することにある。というのは、ちょっとでもこれどう?とか、こうしたんやけどどう?とか、目的に応じて行動しようものなら、必ず変人扱いされる。「意識高いね。」と言われる。彼らは私も含めて、今の状況(わいわい与太話をしている状況)に従うだけで、状況に応じて行動しようとはしない。状況に応じて行動するというのは時に、状況に反することも辞さない在り方だ。例えば、集団が与太話に花を咲かせているときに、一人黙々と、企画の案を考案しておくとか、実際に企画を実践してみるとかだ。そうすることが、本当の義理だと思う。なぜなら、集団の状況に従うことがすなわち、その人にとって、重要なことだとは限らないからだ。だから、状況に応じて、行動していくことで他者に貢献できるだろう。

 話がずれた。僕のサークルは、相手がどう出るかわからないうちは行動を起こせないという行動様式を要因として、生まれたこの状況に準ずることを良しとする特徴がある。そのことが、目的化して、道理や人としてのセンスみたいなものまで、捻じ曲げることさえある。そのとき、私は死にたくなる。道理に反したことをやるのはとてもしんどいことだ。

 同一の集団にいると、その集団の行動原理や、心理を特徴としてとらえるのが難しくなる。つまり、その集団の在り方や論理を絶対化してしまうのだ。世の中にはたくさんの生き方があると気づけない。今の在り方を相対化できない。

 逆に異なる在り方を知っていると今の現状とそれを常に比較して考えることができるため、より多角的にふるまうことができる。